Fincleでは経済や金融に関するさまざまなトピックを取り上げていますが、今回は『日本のバブル経済と崩壊』について解説していきます。
いまから20年以上前に起きた出来事だけに、詳細をきちんと理解している人も少ないのではないでしょうか。
しかし、日本経済や経済史を理解する上でバブル経済について理解することは欠かせません。
早速、バブル到来のきっかけからその崩壊まで詳しく見ていきましょう!
目次
バブルとは?
まずはバブルについて知っておく必要があります!
バブルとは、投機などの過熱によって資産価値が実質価値をはるかに超えるほどに高騰し、その後急激に投機熱が下がり資産価値が下落するといった一連の減少のことを指します。
バブルという名前の由来ですが、英語にbuble(=泡)からきているといわれています。泡が膨れ上がり突然はじける様に似ているためバブル景気、バブル経済と呼ばれるようになりました。
日本でバブル景気というとき、1986~1991年の好景気期間のことを指します。
バブルについて理解できたところで、次はきっかけについて見ていきましょう。
バブル到来のきっかけ
ここでは、バブル到来のきっかけについて、詳しく解説していきたいと思います。
バブルは、1985年のプラザ合意をきっかけとして起こりました。
プラザ合意とは?
1985年9月22日、いきすぎたドル高を是正するために、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、そして日本の先進5ヶ国が外国為替市場に協調介入することが合意によって決まりました。プラザという名前は、ニューヨークのプラザホテルで合意が結ばれたことからきています。
このプラザ合意に基づき、各国はドル売りに乗り出します。
ドル円レートは、合意前は1ドル=240円台だったのに対し、年末には1ドル=200円台になりました。2年後の1987年末には1ドル=120円台となり、日本経済は一時的に円高不況に陥りました。
さてプラザ合意によって引き起こされた円高をさらに悪化させないように、政府は財政出動や税制改革、日銀は低金利政策などの金融緩和の施策を打ち出しました。
円高不況への対策
政府は円高不況への対策として主に2つのことを実行しました。
①財政出動
まずは財政出動を行いました。
財政出動とは、税金や国債などの財政資金を公共事業などに投資することによって、国内総生産(GDP)や民間消費を増やすことです。
不況は経済が滞っている状態です。つまり、消費活動、生産活動がともに行き詰まっている状態を指します。
このような状態を打開するため、政府は公共事業などに投資をして(=生産活動を生み)、生産活動によって還元された利益により期待される消費活動の活性化を狙いました。
②金融緩和
次に金融緩和を行いました。金融政策とは具体的に「公定歩合」の引き下げを意味しています。
公定歩合とは?
日本銀行が民間銀行(例えば三井住友銀行など)へお金を貸付ける際の金利のことを指します。
この金利が下がれば(=低金利政策をとれば)、利子の割合が少なくなりますから、民間銀行は日本銀行にお金を借りやすくなります。
民間銀行が日銀に借金しやすいと、(民間)銀行と提携している企業に対しても融資がしやすくなります。
融資を受けた企業はその資本を基に、新たなサービスを始めたり、設備投資にお金を回せるということになります。
③中曽根税制改革
当時日本の首相であった中曽根康弘氏は中曽根税制改革と呼ばれる大胆な税制改革を行いました。
中曽根税制改革によって、法人税は42%→30%、所得税の最高税率は70%→40%へと大幅減税が行われます。物品税(嗜好品をはじめ、特定の物品を対象として課される間接税)もこのとき廃止されています。
この結果、国家税収がそれまでの三分の二になった代わりに富裕層の所得が増大し、彼らは資産を土地や株式への運用に向けます。
円高不況対策を行った結果
お金を銀行から借り入れるハードルが下がり、多くの企業・個人が借り入れをしました。そしてそのお金を不動産や証券への投資に回したといわれています。
結果、投機が加速し空前の財テクブームを引き起こしてしまいました。
財テクとは会社(転じて個人)が、証券や不動産の投資で、資金運用のもうけを図ることを指します。
中曽根税制改革により、企業の財テクもさかんになっていきました。1986年になると、日本企業による欧米企業に対するM&Aがかなり進みます。三菱地所はニューヨークの象徴であるロックフェラーセンターを買収し、このころには世界中で日本脅威論が叫ばれました。
規制緩和+国営企業の民営化+日経新聞などが財テクを煽るなどの背景も相まって、投機熱が加速、バブル経済が幕を開けることとなりました。
当時は株と土地への投機が盛んになり、“土地は必ず値上がりする”という土地神話の考えが急速に広まり、多くの人が転売目的で土地売買に参加しました。
そうなんです。またバブル期、マイホーム主義の考えが一般的だった日本では、土地の値上がりを恐れて一戸建ての購入をいそぐ人が増えました。そしてそれがさらに地価の上昇に拍車をかけることとなりました。
逆に新居購入のために貯蓄していた家庭の中には値上がりのため購入をあきらめる人々も多く、彼らは浮いたお金で新車購入や旅行など大きな消費をするようになりました。そんな流れの中で、骨董品などの消費ブームが巻き起こります。
バブルの背景には問題点があった
バブル経済では、インカムゲイン(=資産を用いた経済活動)ではなくキャピタル・ゲイン(=資産の値上がりによる差益)による収益獲得を目指す手法がとられました。逸話ですが、企業は本業より財テク(=不動産などへの投資)に熱心だったと言われています。
しかしながら資産価格が高い金額で均衡すると、それ以上値上がるどころか、下降の一途をたどりました。
そして資産価値の上昇が困難になった時点で、キャピタル・ロスをいかに少なくするか(含み損、この場合、購入時の価格と売却時の価格の差をいかに減らすか)がテーマになってしまいます。
そして、株価や地価は一気に下落、急激な景気後退に向かいます。
バブル崩壊
1986年から続いたバブル景気により、地価や株価は高騰し続けました。しかしそれは本来の価値に、まったく見合わない価格です。
いいえ。地価や株価の異常な高騰を抑えるため、政府や日本銀行は1990年に金融政策を行っています。
金融政策の具体的な内容ですが、総量規制と呼ばれる金融政策で「土地を買う目的での融資額を減らせ」という内容の行政指導を金融機関に実施しています。
さらに公定歩合は2.5%から6%台まで引き上げられ、銀行からお金を借りるハードルを大きく引き上げました。翌年、1991年には、所有している土地に応じて課税される「地価税法」も施行され、土地神話は崩壊することとなりました。
これに伴い、土地や株は瞬く間に売却されました。その結果、地価や株価は大暴落することになりました。
更には買い手が付かなくなったことで、資金を借りていた企業の多くが倒産したことで返済が滞り、回収困難なお金(=不良債権)が増え、銀行の経営も悪化してしまいました。
これらの金融政策は、過熱した資産価格の高騰を抑えるために行ったものでした。しかしながら、しかし予想をはるかにしのぐ急激な景気後退、バブル崩壊を招いてしまいました。
バブル崩壊後の日本経済
バブル期の日経平均株価は、1989年の大納会(12月29日)に終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じることとなりました。
その後、中東で起こった湾岸危機による原油価格の上昇や公定歩合の急激な引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落してしまいました。バブルが崩壊している1993年末には、日本の株式価値総額は1989年末の株価の59%にまで減少しました。
(参照:岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、117頁。)
バブル崩壊後の日本では、銀行の経営悪化により優良企業でも融資を受けられず、ボーナスの減少やリストラが相次ぎました。
また住宅ローンを支払えず、マイホームさえ手放すことになった人も多数いたといわれています。
1998年、日本銀行はバブル崩壊による経済状況の悪化への対策を講じました。金利を史上最低の0.15%とする「ゼロ金利政策」です。
金利を下げることで、お金の流れを良くしようとしたのですが、バブル崩壊のショックは予想以上に大きかったようです。バブル崩壊後、20年にわたって、日本経済は回復することはありませんでした。
おわりに
近年日本ではマイナス金利政策(これからゼロ金利政策へ移行する模様)を行っています。しかしながら、マイナス金利であるのに、多くの人が銀行からの借り入れを渋りました。
日本はバブル崩壊以降、長期に渡りデフレに悩まされてきました。現在は株価は当時の水準に戻っていますが、消費者の懐事情はバブル崩壊後、あまり変化がないといわれています。
「サラリーマンお小遣い調査」を実施している新生銀行によると男性会社員のお小遣いは2018年は月額平均で約39000円程。90年の最高値77000円から半分ほどに目減りしたままとなっています。
「原資」となる給料も国税庁の民間給与実態統計調査によると、給与所得者の年間の平均給与は91年は446万円でしたが、直近の2016年は421万円にとどまっているようです。
バブルを経験した日本人。投資や消費行動には慎重なようです。